エピローグ

 
 空港ロビーに響くアナウンスはゆったりと時間が過ぎていく様を伝えてくれた。
 ロビーは絶望的に寒い。季節は冬の只中にある。けれど、隙間風が吹き込む割れた窓を修復する余裕もなく、またエアコンを動かす電力もなく、重ね着だけが冬の嵐を凌ぐ唯一の手立てだった。
 腕時計の長針の進み具合を見て衛は嘆息する。
「遅いなぁ・・・さくねぇ」
 カタカタと、時刻表示板が軽快なリズムを刻んで航空便の離発着時刻を切り替えていく。
 空港のロビーは平日だからなのか、かなり空いていた。それでもそこそこに人がいて、壁際によっていないと迷惑そうな視線を向けられることになる。
 時刻は午後3時少し前。
 待ち人はまだ来ない。
 時間に余裕をとってあるからいいけれど、待っている時間は短いに越したことは無い。
 戦争終結から半年、関西国際空港にやっと最近になって援助物資を積んだ軍用機以外の旅客機も降りるようになった。空港は急速に平和だったころに生活に取り戻そうとしている。
 もっとも、喫茶店や土産物屋のような売店のシャッターが開く予定は全く立っていなかったし、旅客機を使う人の大半は復興支援や復興ビジネスのために来る外人だ。日本人が昔のように大挙して海外旅行に行くようになるには、まだどれぐらい時間が掛かるのか分らない。
 2年にわたる大戦争で、国土は破壊しつくされていた。
 イデオロギー戦争だったこと、人口が密集した狭い国土であること、しかし展開した部隊の火力は世界最高峰だったこと、ストーンヘンジによる対地砲撃、エトセトラ、エトセトラ、全ての条件が重なって日本は荒れ果てた焦土になっていた。
 冬の木枯らしが吹く海の向うに見える大阪のビル街も、ほとんどがガランドウの廃墟だ。今では犯罪者や失業軍人の巣窟になっている。他にも共産テロリストの活動や、ロシアへ脱出した東日本軍残党など不安要素には事欠かない。
 けれど、
「あ・・・・いけない、もう3時だ」
 いそいそと衛はポケットから携帯ラジオを取り出す。
 スイッチをONにすると、ちょうど番組が始まるところだった。
 戦争という冬の時代に耐えてきたラジオ局やテレビ局は、まるで春に桜が芽吹くように恋や愛をテーマにしたドラマや歌番組を一斉に放送していた。
『出会えば変する奴ら』はその中でも特に人気のあるコメディ・ラブの連続ドラマだ。ボクもこのドラマは必ず毎週チェックしている。例え高機動格闘戦中でも必ずリアルタイムで聴かないと気がすまない。
 だからボクは番組に夢中で、話しかけられたことにちょっと気付かなかった。
「あの〜すいません」
 耳元でドラマの主人公以外に話す声が聞こえたときには、その人は諦めたように去っていくところだった。
「ちょっと待って!咲耶さんですよね?すいません、ラジオ聴いてました!」
 ペコリと頭を下げるのは、さくねぇの親戚の友人の妹という微妙な肩書きをもった女子大生だった。
「あ・・・よかった。来るところ間違えちゃったかなって思っちゃった」
 そう言って恥ずかしそうに顔を赤くしたさくねぇは、ボクの良く知っているさくねぇだ。
 けれどボクを見る目は初対面のソレだった。
 だから、
「ごめんなさい、好きなラジオ番組だったからつい夢中になってて」
 ボクも初対面の顔をして謝った。それがさくねぇと付き合うルールだからだ。
「あ、いいの、いいの。今聴いてるの『出会えば変する奴ら』でしょ?私も毎週チェックしてるから。あれって、ヒロインがいいのよね」
「そうそう。で、ヒロインをテロリストと間違えた戦争ボケの従妹との漫才も面白いよね」
「うんうん、分る分る。で、切れたヒロインがその従妹をショットガンで吹き飛ばす話って何話だっけ?15話?」
「16話だよ。『みりたり〜くらいしす!恐怖、毒ガス魔はガルマ大佐!?』だったかな?」
「うわっ!マニアがいる!」
 なんて、おしゃべりをするボク達はどんな風に見えるのだろうか?
 願わくば、それが普通の女子大生のおしゃべりに見えて欲しい。
 その偽りだけがさくねぇの唯一の救いなのだから。
 あの最後の戦いの後。滑走路にイーグルを下ろすと同時にさくねぇは意識を失った。原因は不明。高熱が出て一時は命も危ぶまれた。けれど、奇跡にさくねぇは回復した。英雄を救うために集められた最高の医療スタッフでさえ匙を投げていたのだから、それがどれくらい奇跡的だったのかは、ボクでも簡単に分った。
 ただ、問題はそれだけじゃ終わらなかった。
「ごめんめ。こんなに遅刻しちゃって。2年ぶりにするお化粧だったからちょっと上手くいかなくて」
「そうだったの。でも時間はまだ余裕があるから大丈夫だよ。それに2年も寝たきりじゃ、お化粧のやり方も忘れて当然だと思う」
「うん、やっぱり2年は寝すぎだったな〜寝坊にも程があるわ」
 さくねぇの中から、この2年の記憶が完全に失われていた。
 封印ではなくて、完全な消去。高熱がでるのも当然だった。体に染み付いた操縦技術さえも完全に排除してしまったのだから。
 さくねぇの中では、この2年間はずっとベッドの上で眠っていたことになっている。家に戦闘機が墜落するところまでは覚えているけれど、それに自分も巻き込まれてしまったと思っているのだ。
 だから、戦争中にあったことは何も覚えていない。黄色の13との対決も、メビウス1としての自分も、そして相棒であるボクのことも。戦争に関するありとあらゆることをさくねぇは忘れていた。
 よほど辛かったのだろう、とさくねぇの主治医になった老医師は言っていた。
 それについては賛成するしかなかった。さくねぇは自分を偽って無理矢理に戦争をしているように見えたからだ。さくねぇは元々戦争から一番遠いところにいるような人だ。それが英雄にまでなったのだから、反動も大きくて当然だろう。
 さくねぇが自分を守るために記憶を消したのなら、それに反対することはできない。
 けれど、ボクのことまで心から追い出してしまったことだけが、酷く哀しかった。
「咲耶さんは・・・フランスに行くんですよね」
「はい。フランスにいる死んだ父の友人のところで療養するんです。ディナールっていう海のキレイなところ」
 それは半分だけ偽りだった。
 フランスにいるのは亞里亞ちゃんで、裏口を合わせてさくねぇのお父さんの友人ということにしているのだ。
「でも悪いなぁ・・・日本が大変なときに、私だけ逃げ出すようで」
「そんなことはないよ!」
 つい語気が荒くなる。
 けれど、自分を壊してしまうほど戦ったさくねぇがそんな風に罪悪感を抱くのを黙って見ていられなかった。
「そう、かな・・・私はこの2年もずっと迷惑を掛けてきたのに」
「迷惑なんて思ってる人なんて一人もいないよ。もし、そう思うなら少しでも早く良くならなくちゃウソだ!」
「う、うん」
 大きな声に驚くさくねぇ。ちょっと身を竦ませて、目を開いた姿はびっくりした猫のように見える。
 それこそ本来のさくねぇなのかもしれない。歳相応の、祝福を受けて幸せになるべき人。そんなさくねぇが2年も殺し合いに身を置いた結末がチャラになるのなら、記憶を失ってしまっても構わないと思う。
 ボクの記憶がさくねぇの幸せの邪魔になるのなら、ボクはいなくてもいい。それはとても寂しいことだけれども、他にボクにできることがなかった。
「なんだか・・・あなたと初めてあった気がしないなぁ。もしかして、以前どこかであったことありませんか?」
 もしかしたら私、忘れてしまっているかもしれないんです、とさくねぇは困ったように笑う。
 深呼吸を一つ。千細に乱れた思考を辛うじて取りまとめる。
「いいえ、これが初対面ですよ」
 できるだけ平静を装って、張り裂けそうな胸を押さえ込んでボクは嘘をついた。
 それがボクに出来る精一杯だった。
 本当は、もっとさくねぇと一緒に飛びたい。けれどボクの自分勝手のために、やっと戦争から解放されたさくねぇを犠牲にすることはできなかった。
「あ、そうですよね・・・何言ってるんだろう、私。ごめんなさいね」
「ううん、いいよ。既視感っていうのかな?ボクもそういうことあるから」
 航空券を渡す。もう時間だった。
 今日のボクの役目はこれで終わり。最後にお別れを言うために、無理をしてスケジュールに割り込んだのだ。
 航空券を渡すのを見て、柱の影にいた背広を男達が動き出す。軽く飛んでくる視線に頷き返した。彼らは軍の特務機関の者だった。記憶をなくしても、さくねぇは共産主義者にとっては不倶戴天の敵だ。何が起きても不思議ではない。
 だから、メビウス1はずっと複座機であるのは都合が良かった。今やボクが奇跡の英雄で、さくねぇは最後の戦いで散った勇敢なRIOになっている。少なくとも、公式な記録においては。
「フランスに着いたら何をしたいですか?」
 搭乗ゲートに向う背中に問いかけた。護衛の男達が一斉にいぶかしげな視線を向けてくる。邪魔をしているのは百も承知だ。
 けれどもしかしたら、何もかもさくねぇの演技で、最後の最後でボクに『ウソだよ〜』って笑いかけてくれるかもしれない。
 だが、縋るような問いに対する答えはサバサバとした物だった。
「うーん、まずは海で泳ぎたいな。ディナールはとても海がキレイなところだから」
 顎に指を当てて、そんなところはボクの知るさくねぇのままで、咲耶さんは言った。
「あぁ、でもさ・・・海もいいけど、きっと空も素敵だよ。スカイダイビングとか、ハングライダーとか、楽しいスポーツは一杯あると思う」
 ボクは何を言っているのか自分でもよく分らなかった。
 けれど、2人の共通点が戦争以外にあるとすれば、それは空しかない。ボクも、さくねぇも移り気な風と何千という顔を持った気まぐれ屋な空を愛していた。
 ボク達にとって空は魚にとっての海に等しい場所だったはずだ。
「うん・・・そうだね」
 けれど、さくねぇは困ったように笑うだけだった。
「嫌いなの?空が」
「そうじゃない・・・空は好きよ。青空を見ていると心が軽くなるもの」
 でも、
「あそこで、何か・・・とても悲しいことがあった気がするの。だから・・・今は、いい」
 空を見上げて、さくねぇは言った。
 その姿が酷く哀しげで、今にも空へと落ちてしまいそうなぐらいに儚かった。
「あなたに会えてよかった・・・落ち着いたら手紙を書くわ」
「うん・・ボクも書くよ。必ず書くよ」
 そうして、さくねぇはゲートの向うに消えた。
 泣くまい、と思っていたけれど涙は次から次へと溢れてくる。
 ここにいてはいけない。既に英雄になっているボクは人目のあるところで泣くことはできなかった。
 帰ろう。家に帰って、泣こう。
 家はさくねぇとの思い出の品で一杯だ。それを見て、何時の日か奇跡が起きてさくねぇが帰ってくる日を待とう。
 足取りは重かった。鉛のように重かった。
 それはもう2度と戻らない思い出の重みだった。






 階段で降りるのは辛いので、エレベーターを待つ。
 エレベーターは直に来て、衛と大勢の人間を飲み込んで一階に下りた。
 エントランスホール。ここはロビーよりも人だかりが凄い。端から端まで続くカウンターにはトランクや旅行カバンを持ってならぶ出国者がずらりと並んでいる、
 出国する人の顔は大抵明るい。ほとんど外人で、きっとこれから家族や友達の待つ故郷に帰るのだろう。
 けれど、エール・フランスのカウンターだけはどこか困惑した人達が並んでいた。もっとはっきり言えば迷惑そうな顔をしておる。あか顔の叔父さんは切れる1歩手前だ。
「あの・・・どうしました?」
 海外講演のお蔭ですっかりネイティブになった英語で尋ねると、肩を竦めて年配の婦人は無言で指差した。
小じわの多い指の先には、カウンターで警備員に囲まれて頑張っている日本人がいる。
 恥ずかしい、今すぐ穴を掘って埋まってしまいたい衝動に駆られる。
 どうしてあれだけシリアスな離別の後で、こんな目に会うのか神様に問い詰めたい。小一時間ほど問い詰めたい。
 けれど、助けを求めるカウンターのお姉さんの目を無視するわけにはいかないだろう。
 ボクは不本意ながらのも、英雄なのだから。
「あの・・・どうしたんですか?」
「あぁ?ちょっと取り込み中なんだ。後にしてくれ」
 ぶっきらぼうに言って一方的に会話を打ち切られてしまった。
 けれど、それほど嫌な気分にはならない。乱暴な言葉遣いだけれど、なんとなく爽やかな感じがするのだ。とても清々しいというか、言葉にはできない魅力がある。だから、警備員も力に訴えることができないのだろう。
 もっとも、フライトジャケットの上からでも分る丸太のような太い腕を見れば暴力に訴えることなど直に無謀だと分るのだけれども。
「だから・・・300円でいいんだ。ちょっとだけおまけしてくれよ。ホントに金がないんだよ。どうしてあんたはそんなに強欲なんだ。300円くらい寄付したと思えばいいじゃないか」
「はぁ・・でも料金交渉は規則で禁止されているので、どうかお引取りください」
 もう懇願といっていいほどに、カウンターのお姉さんは困り果てて言った。
 なんとなく、話の筋は読めた。
 どうも、このお兄さんはお金がちょっとだけ足りないらしいのだ。
「どうしてそう融通が効かないんだ?お前の親父は政治士官だろう!」
「それはいくらなんでも失礼だと思うけど・・・はい、貸してあげます」
 カウンターに積まれた山のような小銭に300円を加える。
 これ幸いとばかりにカウンター嬢は航空券を押し付けるように手渡して、小銭の山を持って去っていった。
 後に残ったのは、1枚の航空券。
「あ・・・悪いな・・・」
 やっとそれで周囲の状況を見る余裕が出たのか、じっと自分を睨む長蛇の列にようやく気付いたらしい。
 全く、迷惑極まりない。
「ありがとう・・・助かったよ」
「いいんですよ・・・それよりも、一つ聞いていいですか?」
 何かな?と首を傾げる彼は、ちょっとカッコよかった。いや、かなりカッコイイ。なんというか、微妙に影がありそうなところが凄くいい。その癖、子供みたいに柔らかい目をしているのはもう反則だ。
「フランスに行かれるみたいですけど、どうしてまた?」
 貧乏なのに、とは言わなかった。それくらいは当然のマナーである。
「・・・まあ、ちょっと恥ずかしい話なんだが・・・実はこれから喧嘩した妹と仲直りをしにいくんだ」
「妹さんですか?」
 それは意外な答えだった。出稼ぎだと思っていたのだ。
「あぁ・・・ちょっと行き違いがあってね。生き別れになっていた妹と再会したのは良かったんだが、手違いから喧嘩になってしまってね・・・とんでもない大喧嘩になって、酷い目にあったよ」
 酷くバツが悪そうに言う彼はすこぶる歯切れも悪い。
 そういえば、彼の首や手首から白い包帯が覗いていた。たくましく見える腕もどうやらギプスで固めてあるらしい。
 一体どんな兄妹喧嘩をしたのだろう?階段から落ちてもここまで酷い怪我をすることはないと思う。
 いぶかしげな衛の視線に気付いて、彼は引きつった笑みを浮かべる。
 聞かないでくれ、と彼の顔に詰まらされた。
「まぁ・・俺が大人気なかったんだ。謝って許してもらうとするよ」
「それがいいと思います。それで妹さんはフランスのどこにいるんですか?」
「それがよく分らん・・・いろいろ複雑な事情があってね・・・妹がフランスに行くって話も3時間前に聞いたんだ。病院を抜け出すのに苦労したよ」
 なんとも豪快な話だった。よく見るとフライトジャケットの下はパジャマだ。病院から抜け出してきたというのは本当らしい。
 なんというか・・・呆れる前に関心してしまう。
「はぁ・・・とりあえず、ディナールっていうリゾート地に行ってみるといいですよ。向うに亞里亞ちゃんっていう友達がいるんですけど、とてもいい人で、きっと妹さん探しに協力してくれると思います」
「悪いな・・・恩に着る。妹と仲直りしたら手紙を書くよ。かならず金も返す」
 お金については、あまり期待しないでおこうと思った。
「妹さんのこと、好きなんですね」
「あぁ・・・大切な妹だ。今まで寂しい思いをさせてきたからな・・・その分大切にしてやろうと思う」
 照れくさそうに笑う彼は、子供のように見えた。
 そして、何よりも言葉は真剣に響いた。きっと他の全てが偽りだったとしても、その言葉の響きだけは真実なのだろう。
 ちょっとだけ、こんなに大切にされている妹さんが羨ましかった。
 そして、さくねぇにもこんな幸せがあれば、と思ってしまった。もしも、戦争さえなければ、この兄妹のようにさくねぇも成れたかもしれない。
 それはさくねぇにとって最高の幸せだろう。
「じゃあな!ありがとう、この恩は決して忘れないよ」
「忘れてもいいですから、ちゃんと妹さんと仲直りしてくださいね」
 手を振って雑踏の中に消えていく背中を見送る。雑踏の中に消えていくフライトジャケットの背中は凛々しくて、憧れてしまう。
 ボクもフライトジャケットは持っているけれど、凛々しいという言葉からは程遠い。どちらかといえば、可愛らしく見えてしまう。
「そういえば・・・どこの部隊の人か訊くの忘れてた」
 しかし、どこかで会ったことがあるような気がするのだ。声も何となく聞き覚えがあるような気がする。
 それがどこだったのか、いつだったのかはまるで思い出せない。思い出せないという結論がある時点でそんなことはなかったと諦めて良さそうなものだが、どうしてか思い出そうと躍起になっている自分がいた。
 しかし、思い出せない。
 激しい空戦機動のせいか、脳細胞が死にすぎて記憶力が低下しているかもしれない。
 だとしたら、老後が心配だ。
「ボケたらどうしよう・・・」
 老後の心配をしている内に、彼の姿は消えていた。けれど、その背中だけは妙に鮮やかに脳理の残っている。
 不意に、その背中が他にも見たことがあるのを思い出す。
 そうだった。あの背中は、さくねぇに似ているのだ。
「ちょっと待って!」
 呼び止める声はエントランスの喧騒に紛れて届かない。 
 慌てて追いかけようとしたところで、横合いから飛び出してきた人にぶつかってしまった。
目に火花が飛ぶ。鈍い音がして、揺らぐ視界の中でトランクが倒れていく。ガラスが割れる音がして、派手に荷物が散らばった。
「ご、ごめんなさい!」
 謝罪するのも忙しく、急いで散らばった中身を拾いあつめる。
 けれど、凍りついたように衛の手は止まった。
 手を伸ばしかけたソレは・・・最初は何かの干物に見えた。干物だからスルメだと思ったのだが、それにしては毛深い。乾いているけれど、なんとなく縞模様が見える。筋と皮だけになっているけれど、水戻しはすれば猫に見るかもしれない。
「ね、ね、猫が・・・」
「いや、猫じゃない・・・それはトラの子だよ・・・トラのミイラなんて・・・珍しだろう・・・これが本当の・・・虎の子って奴さ・・・」
 耳元で囁く声に衛が悲鳴を上げなかったのは奇跡に近い。
 背中から伸ばされた妙に白い手がミイラを摘まんで持ち去った。それを追っていくと、さっきぶつかってしまった人の元にたどり着く。
 黒尽くめな、占い師みたいな格好をしたその女性はスーツ姿の外人が多い中で完全に浮き上がっていた。
 その割には、今まで気付かなかったのが不思議でならない。
 どう考えても、この格好ならエントランスに入って直に気付くと思うのだが、今の際まで気が付かなかった。
 そもそも、こんな格好の人がいたら周りも騒ぎそうなものである。いや、その前に警察が来だろう。
けれど、今悪いのはボクの方だった。
「すいません・・・余所見をしていました」
 トランクの中身はかなり派手に散らばったはずなのに、辺りはすっかりと何事もなかったように片付いていた。
 殆ど手伝えなかった自分が恥ずかしい。
 しかし、固まっていた時間なんて1、2分程度のはずなのに、よくも全部拾えたものである。かなり細かいビーズのようなものまで散らばったはずなのだが。
 まるで魔法みたいだ。
「いや・・・いいさ、そういえば・・・頭は大丈夫かい?かなり酷く打っていたようだが・・・」
「え?はい、大丈夫です」
 かなり激しく衝突した割りには痛くない。
 かなり鈍い音がしたはずなのに、あれは聞き間違いだったのだろうか?
「・・・こっちも不注意だったよ・・・少し急いでいてね・・」
「いえこちらこそ・・・すみません」
 目深に被っているフードのせいで、表情は分らないけれど、彼女は真剣に心配しているようだった。
 格好はかなり怪しいけれど、良い人らしい。
「しかし・・・君は・・・面白い星の持ち主だ・・・」
「はぁ?」
「いや、なに・・・・占いの話さ・・・」
 どうやら、やはりこの人は占い師らしい。空港で商売をしているのだろうか?でも、それは大きな旅行用トランクに矛盾する。
「今日は商売じゃなくて・・・旅立つためにきたのさ・・」
 こちらの考えを読んだように彼女は言った。
「どちらに行かれるんですか?」
「ちょっと遠いところ・・・フランスにね・・・大切な人に会いにいくのさ・・」
 どうも今日はフランスに縁がある日らしい。
 さくねぇといい、さっきの貧乏な人といい、どうして今日はこんなにもフランスに行く人ばかりに会うのだろう?
 偶然とわいえ、ちょっと運命的だ。
「大切な人っていうと、彼氏ですか?」
 もし恋人に会いに行くとしたら、ロマンチックな話だ。フランスで待つ恋人に会うために、地球を半周もするのだから。
「まぁ・・・そうだね・・今回はね・・・ちょっとびっくりさせに行くのさ」
「びっくり?」
「ちょっと・・恥ずかしい話なんだけどね・・・実は戦争に巻き込まれて・・・彼は私を・・・死んだと思いこんでしまったらしいんだ・・・あの時は何もかも混乱していたし・・・入院先は電話さえない田舎の病院だったからね・・・無理もない・・・」
「それは大変でしたね・・・」
 一人の軍人として、忸怩たるものがこみ上がる。
 自分達はこういう幸せな恋人達を守るために戦ったはずなのに、それが却って彼らを傷つけることになってしまったのだから。
「いや・・・気に病むことはないさ・・・特に君はね・・さて・・もう行かないと」
 彼女は柔らかく微笑んで、雑踏に足を向けた。
 けれど、ふと彼女は思い出したように振り向いた。人の奔流に飲み込まれる中、彼女の声だけが妙にはっきり聞こえる。
「そうそう・・・君はどうやら・・・悲しい別れを経験したばかりのようだが・・直に良いことがあるようだ・・・待ち人は必ず来る・・・・」
 それだけ言い残して、彼女の姿は消えた。
 まるで魔法のように、最初からそんな人はいなかったように、見送る背中さえ残さずにどこかに消えていた。
 だからボクは、微かに思いだせる彼女の柔らかな微笑みに返事を返した。
「ボクよりも自分のことを占った方がいいと思いますよ・・・恋人さんが浮気をしてるかもしれない」
 返事は返ってこない。耳に届くのは雑踏の喧騒だけ。
 けれど、彼女はこう言ったんじゃないだろうか?
「人の星は読めても・・・占い師は自分の星は読めないものさ・・・だから、明日何が起きるか分らない。だから、明日が楽しみなのさ・・・」
 なんて、まるで声が似てないから、ボクが言っても不気味な独り言になってしまう。
 彼女のようなミステリアスな影のある響きでないと、どうも具合が悪い。
「さてと・・・ボクも行こうかな」
 妙にさっぱりした気分だった。まるで散髪の後のような、そんな爽やかさ。
「そうだ・・・ちょっと髪を切ってみようかな?」
 割れたガラス越しに空を見上げた。
 風は冷たく、容赦なく吹きすさんでいるけれど、冬の空は他のどの季節よりも澄んでいる。今のボクの心もソレと同じだった。
 澄んだ青空なんてありふれているけれど、今日の空はとてもキレイだ。
 憂いはなく、不安はあるけれど、それ以上に前に進んでいく風と雲。そして太陽は今日も、明日も、明後日も、ずっとその先も、この星を照らしていくだろう。
 太陽が天にある限り空は青く、風が吹く限り雲は流れ、諦めない人がいたから今日の空は澄んでいる。
ストーンヘンジに砕かれた空の下で出会ったボク達は、砕け散った空のカケラのように分かれて散っていく。
けれど、ボクはさくねぇがいた時を忘れることはない。二人が飛んだ空がセピア色になっても、見上げる空はずっと青いのだから。
「遠く離れていても、心はすぐ傍にある。この空が青い限り、ボク達はずっと大丈夫。雲はいつか千切れて消えてしまうけど、また風は吹いていく。風はさようならのない旅をして、きっとまたどこかで会えるよね」
 壊れてひらきっぱなしの自動ドアを潜って、木枯らしが吹き荒れるロータリーに出る。
 遠くに見えるジープには、寒空の下凍えながら待ち続ける可愛い部下の姿があった。ちょっと生意気だけど、これが結構な忠義者なのだ。
これはコーヒーの一つでも買っていってやらねば、と自販機を探すことにした。
 空港なら、一つや二つ、生きている自販機があるだろう。商魂たくましい難波の商人が歩き売りをしているかもしれない。
 飛び立つジャンボジェットの爆音が響く空の下、人の流れに飛び込むステップは軽やかだった。
 果てしない青空に響くのは人の声と足音、空港のアナウンスに雑音混じりのラジオ、涙の流れる音と幸せの笑い声、怒鳴り声が聞こえれば、愛を語る言葉も響く、バスのエンジン音、大直径ターボファンの爆音、そして微かな口笛。
 喧騒に紛れて響く口笛は風に乗って遥か彼方まで旅をする。
 唄は人の思いを乗せて、風は唄を乗せて、青空の果てまでも、そして大切な誰かの下へいつかきっと届く。
 だから、口笛は止まらない。
 雑踏の喧騒に衛の足取りは消えていく。
 別れの日を唄いながら。
 















                                END
















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